クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝説教 「イエスと私の関係」

 昨日、大阪のT教会で説教奉仕をしました。原稿を紹介します。読んでいただければうれしいです。

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説教 イエスと私の関係
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新約聖書 ルカ福音書 12章8~12節

12:8 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。
12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。
12:10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。
12:11 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。
12:12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。
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0.    メッセージ

→今日お伝えしたいことは、信仰に生きるとは<神との関係に生きる>ことである、ということです。
たとえば私たちは祈る時、神のことを「天の父」と呼びます。
私たちはイエス・キリストへの信仰のゆえに、神の子とされています。
すると神との関係に生きるとは、神を父として、神の子として生きることになります。
このような神との関係を私たちはあまり意識してしないかもしれません。
でもそのことが大切であることを聖書から聞きたいと思います。

→今日の聖書は、ある人が迫害下にあってキリスト者ではないかとの嫌疑をかけられて裁判を受ける場面が想定されています。

1.はじめに

→この段落は直前の段落と結びついています。
前の段落では、神こそ、私たちが畏れるべき方であると教えています。

ルカ12:5
だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。

→人間は人の命を奪うことはできますが、それ以上のことはできません。
しかし神は人を地獄に投げ込むことができるというのです。
だからキリスト者が迫害に遭っても、信仰を貫き、迫害を受けて死んだとしても、神に喜ばれます。
しかし、死を恐れ、救い主であるイエスを否定したなら、
迫害を免れ、この世でもっと長生きできたとしても、
地獄に投げ込まれたら、大変です。
イエスへの信仰を固く守りましょうと今日の段落は語っています。

→11~12節は迫害下にあって捕らえられて裁判を受ける時、何を語るか心配しなくてよいとの励ましの言葉です。
聖霊が語るべき言葉を与えられると約束されています。
今日は8~9節を取り上げたいと思います。

2.今日の聖書の語ること

→8節を読みます。

12:8
「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。

→「人々の前で」と「神の天使たちの前で」とあります。
ここでは迫害下に捕らわれた人たちに対する二つの裁きが考えられています。
一つは地上での法廷の裁き、もう一つは天上での法廷での裁きです。
天上の裁きというのは聞き慣れない言葉です。
それはいわゆる最後の審判を指します。
聖書は、この世界はやがて終わりを迎えると教えます。
これを終末と呼びます。
キリストが今一度この世界においでになると終末となります。
そして人は皆、いかに生きたのか、神に裁かれると聖書は教えます。
これを最後の審判と呼びます。
天上の法廷とは、この最後の審判を意味します。

→地上の法廷では、キリスト者ではないかとの嫌疑で捕らえられた人が
自分はイエスの仲間であると告白するなら、迫害を受けて死ぬかもしれません。
しかし、地上の生涯を終えて終末の時を迎えた時、
その人は、「神の天使たちの前で」、つまり天上の法廷で、
イエスから、私の仲間であると言われるというのです。
その結果、神の国に迎えられます。
9節を読みます。

12:9
しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。

→しかし「人々の前で」、つまり地上の法廷で、
イエスを知らないと告白するなら、迫害の死を免れることはできます。
しかし天上の裁きでは、イエスから「あなたのことは知らない」と言われます。
その結果、その人は神の国には迎えられません。
神をこそ畏れるべきであって、キリスト者なら、イエスの仲間であると告白することが大切だと教えられます。

3.イエスの仲間

→8節で「イエスの仲間」とありました。
皆さんは、「あなたはイエスの仲間ですか」と聞かれたらどう答えられるでしょうか。
私、堀江はイエスを信じますが、
イエスの仲間であるという自覚はありません。
仲間というと特別なグループを指しているような気がします。
「イエスの仲間」という言葉は、
すべてのキリスト者を意味しているとは考えにくいです。
そこで他の聖書訳はどうなっているのかを見てみます。

口語訳聖書では8節はこのように訳されています。

12:8
そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。

→口語訳では、「だれでもわたしを受け入れる者」とあります。
これはすべてのキリスト者を意味すると言ってよいと思います。
福音派の人たちが使う新改訳聖書ではこう訳されています。

12:8
そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。

→この訳では、「だれでもわたしを認める者」とあります。
これもすべてのキリスト者を意味すると言ってよいと思います。
私自身、自分がイエスの仲間という認識は持っていません。
しかし「イエスを受け入れる者」「イエスを認める者」については
同意します。
それゆえ新共同訳聖書の、「イエスの仲間」は、
イエスを信じる者すべてを意味すると言ってよいと思います。

4.最後の裁き

→私たちは、今日の聖書にあるような迫害を受けていません。
ここに書かれているような裁判の場・地上の法廷に出ることはないと思います。
でも、私たちはキリスト者としていかに生きたのか、
天上の法廷・キリストの前で裁かれることを聖書は教えています。

→マタイ福音書25章31節以下には次のように書かれています。

マタイ 25:31~33
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。

→人の子、つまりキリストは天からこの世界においでになり、すべての人を裁くというのです。

25:34
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

→右に分けられた人は神の国に迎えられます。

25:41
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

→左側に分けられた人は、永遠の火に入れとの判決が降ります。
裁きの基準は何だったのでしょうか。

25:40
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

→裁きの基準はその人の行動です。
最も小さい人に親切にしたか否か、それが裁きの基準です。
また使徒パウロはコリントの信徒への手紙二5章で次のように書いています。

コリント二 5:10
わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

→私たちはキリストの裁きの座の前に立ち、地上の生活で何をしたのか、それに基づいて裁かれるとあります。
キリスト者としていかに行動したのか、それが神に裁かれるというのです。
このような箇所を読むと私たちは不安になるかもしれません。

→先日、ヘンリ・ナウエンという人の『母の死と祈りという』本を読みました。
その本の中で、ナウエンは病床にある母の最後を看取ります。
彼の母は敬虔なカトリックの信者です。
その母が言うのです。
「私は死ぬのが怖いの。
神さまの前に出て一生のことをみなお見せするのが
とても怖いのよ」。

→神の前で自分がいかに生きたのか、神さまはすべてご存じなので、神さまの裁きが怖いの、と言っています。
私たちはいつの日か、キリストの前に出て裁きを受けます。
そのことは礼拝で毎週告白している使徒信条にもあります。
キリストは「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」とあります。
キリストは「かしこ」つまり天よりこの世界に来られて裁きを行われるとあります。
今日の聖書は、ある人が迫害下にあってキリスト者ではないかとの嫌疑をかけられて裁判を受ける場面が想定されています。
私たちはそのような場面に直面することはないと思います。
でもキリスト者として私たちがいかに生きたのかは、
問われると私たちは教えられます。

3.大切なこと

→このような最後の審判ということを考えると誰もが不安になるかもしれません。
しかし私たちが覚えておくべきことがあります。
それは私たちを裁くこのキリストは、
私たち人間を罪から救うためにこの世に来られ、
罪を償ういけにえとして御自分の命をささげられました。
それゆえ、キリストを信じる者は、罪が赦され、
神の前に義とされると聖書は語ります。

ローマ 3:23~24
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。

→キリスト者は自分の目に自分は罪を犯す罪人でも、
神の目には正しい人なのです。
神はキリスト者を正しい者と見てくださり、
正しい者として接してくださいます。
それゆえ、キリストの裁きの座の前に立っても、
正しい者とされているので、
神の国に迎えられるという約束を与えられていると
考えることができます。
洗礼を受けキリストを信じたら、
天国行きが決定したわけではありません。
神の国に迎えられることが決定したわけではありません。
あくまでも約束が与えられているのです。

→ではこの約束が実現するために、キリスト者はどうしたらよいのでしょうか。
聖書には神の約束に生きた人がいるので、その生き方を参考にすることができます。

5.約束の実現をもたらす歩み

→聖書には神から約束を与えられた人が登場します。
たとえばアブラハムです。
神はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にする」と約束しました。
同時に神はこう命令しました。
「わたしが示す地に行きなさい」。
アブラハムは、神が示す地に向かって旅立ちます。
神の約束に命令が伴う時は、その命令に従うことが大切です。

→神はモーセに約束を与えました。
神は、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民をエジプトから解放し、自由に生きる地へ導くと約束しました。
この場合、約束に伴う命令はありません。
命令がない場合には、約束を信じる者としてふさわしい行動を取ることが大切です。
神は大いなる力を発揮し、イスラエルの民を奴隷状態から解放しました。
イスラエルの民は奴隷であったエジプトの地を離れ
自由に生きる地を目指して荒野を旅します。

→荒野の旅には困難が伴いました。
飲み水がなくなる、食べ物がなくなるなどの危機が訪れました。
そこでどうするか、です。
約束の実現を待ち望む者として行動すれば良いのです。
神は約束を必ず実現すると信じて、助けを求めればよいのです。
神に助けを求めればよいと思います。
でもイスラエルの民は、困難に直面するつど、神に不平を言い、
困難に遭うなら、エジプトにいた方がよかったなどと言うのです。
これは、約束の実現を待ち望む態度ではありません。

→また荒野を旅してシナイ山の麓に来た時、
イスラエルの民は神と契約を結びました。
神は、彼らの神となると約束しました。
イスラエルの民は、神の民となると約束しました。
神はあなたがたの神となると約束されました。
だから困難に直面したら神に助けを求めればよいのです。
神は彼らの神となると約束しました。
それなら神に助けを求めるべきです。

→しかしイスラエルの民は神の助けを求めませんでした。
神に文句を言いました。
そのため文句を言った人たちは約束の地に入ることはできませんでした。

→ではイエス・キリストを信じ、義とされ、神の国に迎えられるという約束を受けているキリスト者はどうしたらいいのでしょうか。
イスラエルの民は神が与えると約束された地に入るためには、
神の民として、彼らの神になってくれた神に信頼すればよかったのです。
神を信じるとは、神との関係に忠実に生きることです。
大切なことは、神と私たちの関係を覚えることです。

→それなら、私たちは神あるいはイエス・キリストと
とのどのような関係にあるのでしょうか。
実は新約聖書には、神と信仰者の関係が色々な表現で言い表されています。
たとえばイエスは羊飼いであり、キリスト者はその羊飼いに養われる羊であるという理解があります。

ヨハネ 10:14
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

→さらにこの羊飼いは、どのような羊飼いかというと、

ヨハネ 10:11
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

→この羊飼いは羊のために命を捨てるというのです。
羊飼いなるイエスは、十字架の上で命を捨てました。
それは羊である私たちを罪から救うためでした。

→イエスと自分の関係を羊飼いと羊と受けとめるのなら、
私たちは羊飼いに養われる羊である、と受けとめることができます。
羊飼いは、草のあるところに羊を連れて行きます。
また羊飼いは羊を襲ってくる獣から守ります。

→私たちの羊飼いイエスは、聖書、神の言葉によって、
羊である私たちを養ってくださいます。
その養いを受けてこそ、私たちは生きることができます。
また神の言葉は、私たちを罪や誘惑から守ってくれます。
羊飼いであるイエスの養いを受ける羊として生きる、
そのことがあの救いの約束の実現につながると私は信じます。
羊として生きるなら、キリストは私たちを裁きの場において
あなたを神の国に迎えようと言ってくださると私は信じます。

→あるいはイエスを先生、自分をイエスの弟子と考えたらどうなるのでしょうか。
イエスは天に上げられる前に弟子たちに命じました。

マタイ28:19
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、・・・

→キリスト者はみな、洗礼を受け、イエスの弟子になります。
弟子は先生に従います。

マタイ 16:24
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

→自分はイエスの弟子であると考えるなら、自分の十字架を背負って歩みます。
イエスの弟子として生きる、それなら、
キリストは私たちを裁きの場において
あなたを神の国に迎えようと言ってくださると私は信じます。
また、イエスは私たちのことを「友」と呼んでくださいます。

ヨハネ 15:14
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

→私たちはイエスの友になることができます。
それゆえ私たちはイエスを友とすることができます。
私たちはイエスと友人関係に生きることができます。
多くのキリスト者が愛する讃美歌があります。
「慈しみ深き、友なるイエスは」。

→友なるイエスの前で、私たちは重荷を下ろすことができます。
友なるイエスは祈りに答えて私たちを慰めて下さいます。
友なるイエスはまた変わらぬ愛をもって私たちを導いてくださいます。
私たちはイエスを友として生きることができます。
イエスを友として、またイエスの友として生きるなら、
キリストは私たちを裁きの場において
あなたを神の国に迎えようと言ってくださると私は信じます。

→イエスと自分の関係がはっきりすると自分がどう生きるかも定まります。
ちなみに私がイエスとの関係をどう考えているかお話しします。

ガラテヤ 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

→キリストは私のうちに生きておられる方と受けとめます。
キリストが私のうちに生きておられる、そういう自分を
私は生きるようにしています。
キリストが自分の内に生きていると言っても、
私という人間をキリストが乗っ取るというわけではありません。
むしろ、私の中のキリストに生きていただきたいと考えています。
私の場合はこうです。

ヨハネ 1:14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

→神の言は人となりました。
それが神の御子、イエス・キリストです。
キリストが私のうちに生きるとは、
神の言葉が、私のうちにあって、生きるのです。
言い換えると私は神の言葉によって生かされています。
それゆえ私は聖書、神の言葉を大切にします。

詩編 119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯

→御言葉が私を導くと語っています。
そこで聖書を読み、思い巡らします。
神さまの導きを得ようと耳を傾けます。
み言葉に生かされる私。
これがキリストが私のうちに生きていることと私は考えています。

→イエスと私の関係、キリストと私の関係が定まると
信仰者としての自分の生き方がはっきりします。
そうなると、簡単には、
イエス・キリストのことを知らないとは言えなくなるのではないかと考えています。
そうすれば最後の審判において、
救いにいれられると信じます。
神の国に迎えられると信じます。

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