クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.10.14)
コリント一11:23〜26 主の晩餐

11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、

11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 主の晩餐。教会で行われる聖餐式のことです。小さく裂かれたパンを食べ、小さな杯に入ったぶどう酒を飲む儀式です。この儀式には、原型というべきものがあります。これを知ることはとても大切です。
 旧約聖書出エジプト記に書いてあります。昔イスラエルの民はエジプト王の奴隷でした。BC1200年頃です。イスラエルの民は奴隷としての苦しみの中から、神に救いを求めました。神はイスラエルの民を解放すべくいろいろな奇跡を行います。そして最後に神は指示します。「家ごとに小羊を屠り、その血を家の入り口に塗りなさい」。夜、神の使いがエジプト中をめぐります。血が塗ってある家は通り過ぎるのですが、血の塗っていない家に対して、神の使いは、その家の長子、一番年上の子供が死ぬという災いがもたらされました。エジプト王の子も死にました。この結果、エジプト王はイスラエルの民をエジプトから追い出すことを決意します。イスラエルの民はエジプト王の奴隷状態から解放されたのです。

 イスラエルの民は、過越の祭りを祝います。定められた日、特別の食事をして、昔、神がイスラエルの先祖をエジプトから解放したことを思い起こし、その神が自分たちの神であることを確認するのです。神がこの祭りをするように命じました。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(23節)。

パウロは、主の晩餐について、「私自身主から受けたもの」と述べ、これがイエス・キリストから命じられたものであることを明言します。

エスは、

「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24,25節)

と繰り返し命じました。繰り返し、イエス・キリストの十字架の死を思い起こすこと、イエス・キリストの十字架の死が何であったのかを想起することを命じているのです。イエスは何のために十字架で死んだのでしょうか。私たちの罪を赦すためです、という答えは不十分です。正確には、私たちを罪から解放するためです。罪の結果としての死から解放するためです。

「解放」が救いの本質なのです。イスラエルの民がエジプト王の奴隷状態から解放されたように、イエスの十字架の死は、私たちを罪と死から解放するのです。解放された喜びを味わい、自由にされて生きることができるのです。これが十字架の恵みです。クリスチャンになって喜びと自由を味わっていないのなら、もう一度聖書が何を言っているのか耳を傾け、聖書を学んで欲しいです。皆さんの自由と喜びを得るために、牧師として私はいつでもお手伝いをします。

 イエスはパンを裂き、

「これはあなたがたのためのわたしの体である」

と語り、裂かれたパンを弟子たちに食べさせました。一つのパンから共に食べたことは、弟子たちが一つであること、エスを信じる群れが、一致すべきことをこのパンは示しています。

 コリントの教会では、主の晩餐の時、裕福な者たちは自分たちの食事を済ませ腹一杯でなかには酔ってしまった者がいました。一方、貧しい人たちはお腹をすかせていました。裕福な者たちは食物を分けてあげるべきでした。自分たちさえ満腹であればよいと考え、貧しい人を思いやることができないでいたのです。愛が育っていませんでした。

「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(25節)。

聖餐でいただくぶどう酒はイエスの血を指していますが、その血は、新しい契約を立てるためのものでした。

 新しい契約というからには古い契約があります。古い契約は、イスラエルの民が神と結んだ契約で、エジプトから解放されたイスラエルの民がシナイ山の麓で、神と結んだ契約です。神はイスラエルの民に対して「すべての民の中にあって、あなたを宝の民とする」と約束し、イスラエルは神の掟を守ると約束しました。これが古い契約です。

 新しい契約は、エレミヤ書に書かれている言葉の成就です。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31:31〜34)。

 要点は二つです。

  • 神は人間の罪を赦し、心に留めないと約束されたこと、
  • 人間の心に神の律法が刻まれるので、人は自由な思いで喜んで神の教えに生きることができるようになること。

 罪とは神への反抗であり、神の教えに対する不従順です。人間の心は罪に傾いているのですが、イエス・キリストの十字架は、私たちを罪の支配から解放し、私たちを愛する者へと変えます。そして信じる者たちの一致が生まれます。信じる者たちは、互いに愛し合うという神の教えに生きるからです。

 今日の聖書から教えられることをまとめると

  • キリストの十字架の死は罪と死からの解放をもたらす死であること
  • 救いを受けた者は互いに愛し合うことが神のみ心である
  • 一つとなって互いに愛し合う教会を形成することが神のみ心である

 教えられたことをいかに適用すべきでしょうか。

 人間が互いに争い対立しているこの社会の中にあって、互いに愛し合うことによって一致が生まれることを教会は世に向けて証しをする使命があります。これは神の願いです。崩壊した家庭が多くなりつつある今日、家族の回復は教会がこの世に提供できる大きな贈り物です。

 教会が互いに愛し合い一つとなるためにはどうしたらよいのでしょうか。私たちは生まれた時、家族の中で育ちます。家族の中で愛され愛することを学びます。教会でも同じです。小グループの中で愛し合うことを学ぶのです。アパルームと呼ばれる小グループを教会の中にいくつも作り、そこで互いに愛し合う神の家族をつくることを提案します。アパルームの中で共に聖書を学び、互いに祈り合い、支え合う神の家族をつくりたいのです。

 アパルームとは「上の部屋」(使徒1:13)の意味で、イエスの弟子たちはそこで熱心に祈っていました。