クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人間、罪深きもの(5/5)私のアイデンティティー

自分が罪深い者であることは忘れず、同時に神が私を神の子としてくださったことを喜び、私は神の子として歩みます。

人間、罪深きもの(3)心を清める信仰者

人はなぜ罪を犯すのか。答えを語るアダムとエバの物語。

人間、罪深きもの(2)矛盾した存在か?

聖書によると人間は神に似せて造られ、良い存在でした。同時に罪深い存在です。矛盾しています。

人間、罪深きもの(1)人はなぜ罪深いのか

神に似せて造られた人間は、同時に罪深い存在です。この矛盾をどう考えたらよいのでしょうか。

心に湧(わ)いてくる悪い思い

悪い思いが心の中に湧いてくることは罪を犯すことにはなりません。 悪い思いに従って行動するとき、罪を犯すことになります。

キリスト、わが内に生きたもう(4)罪に打ち砕かれるパウロ(2)

パウロはキリストに結ばれて生きる信仰者となり、罪を克服して生きる者とされました。

神の悲しみは神の喜びに

イエス様の「し死ぬばかりに悲しい」悲しみは、人間の罪を悲しむ神の悲しみ。神の悲しみはやがて神の喜びへ。

主の晩餐(つづき)

主イエスが弟子たちにパンとぶどう酒を与えたのは何のためだったのか。三番目の意義について紹介

主の晩餐

主イエスは弟子たちと最後の食事をしました。その中で弟子たちに裂いたパンを与え、杯を与えた主イエス。何のために?

神の御心と向き合うパウロ

神から御子を啓示され、イエス・キリストが救い主と知ったパウロの心境の変化を追います。

人の過ちを赦さないなら

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

神の子という資格

言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。罪を犯すクリスチャンは、神の子といってよい?

神の愛の深さ

旧約聖書には、神の掟として人が罪を犯した場合、いけにえを献げて神に赦しを求めることが命じられています。これは何を意味しているのでしょうか。

神が用意された道

人は自分の犯した罪に対して自分で償いをすべきだし、身代わりなんておかしいと語る人もいます。でも聖書はなぜ、イエス・キリストが身代わりになったと語るのでしょうか。

関係性に生きるクリスチャン

人は他者との関わりの中で生きています。キリスト教は他者との関わりを大切にするように教えます。人はだれでも人格を持つものとして尊重されるべきです。

プライドという罪

アダムとエバに現れたプライドという罪。プライドこそ、根本的な罪。

善悪の知識の木

創世記によれば、神は人間を造り、善悪の知識の木の実は食べてはいけない、食べると必ず死んでしまうと警告されました。なぜ?

A長老とBさんの対話(21)罪を犯すよう働きかける力

クリスチャンは洗礼を受け生まれ変わり、神さまの教えに従いたいと考えます。時に、反発する思いも抱きます

A長老とBさんの対話(20) あなたの本心はどこに

信仰者には、神さまの教えに従うのは無理だとか、従いたくないとか、頑なな思いがあります。どう対処するか。

A長老とBさんの対話(19)罪に打ちのめされる

罪に打ちのめされることをめぐって。罪とプライドには深い結びつきがあります。

悲しむ責任

アフガニスタンにおける自爆テロとアメリカの報復。犠牲者が出たことをどう受けとめるのか。

当たり前は当たり前じゃない

当たり前は決して当たり前ではないと気づくことは幸いではないかと思います。私たちの当たり前は?

聖書が教える罪とは何か

神の前に人間が犯す罪は、神を神としないこと、神を敬わないこと。そして敬わない心から出てくる神の教えに逆らう行動。それが罪。

子と父と若者

聖書は信仰者の成長には段階があることを伝えています。子、若者、父で段階を表現しています。

勝利の道は目の前に

罪との戦いに勝利の道が用意されています。必要なのは決断です。

キリスト者は決断をして生きる

信仰者の心の中の戦い。勝利する道は信仰者の決断です。

わたしはなんとみじめな人間なのでしょう

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

霊に従うか、肉に従うか

キリスト者として生きようとすると葛藤が起きます。神の教えに生きようとする思いとそれに反発する思いが心の中でぶつかるのです。

罪へ誘う勢力を認めて戦う

罪へと私たちを誘う勢力を認めると、罪との戦いが生じますが、勝利が約束されています。

罪へ誘う勢力を認める

罪との戦いを考える時、私たちに罪を犯すように働きかける力のあることを認めることが大切です。