罪
信仰者には、神さまの教えに従うのは無理だとか、従いたくないとか、頑なな思いがあります。どう対処するか。
罪に打ちのめされることをめぐって。罪とプライドには深い結びつきがあります。
アフガニスタンにおける自爆テロとアメリカの報復。犠牲者が出たことをどう受けとめるのか。
当たり前は決して当たり前ではないと気づくことは幸いではないかと思います。私たちの当たり前は?
神の前に人間が犯す罪は、神を神としないこと、神を敬わないこと。そして敬わない心から出てくる神の教えに逆らう行動。それが罪。
聖書は信仰者の成長には段階があることを伝えています。子、若者、父で段階を表現しています。
罪との戦いに勝利の道が用意されています。必要なのは決断です。
信仰者の心の中の戦い。勝利する道は信仰者の決断です。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
キリスト者として生きようとすると葛藤が起きます。神の教えに生きようとする思いとそれに反発する思いが心の中でぶつかるのです。
罪へと私たちを誘う勢力を認めると、罪との戦いが生じますが、勝利が約束されています。
罪との戦いを考える時、私たちに罪を犯すように働きかける力のあることを認めることが大切です。
キリスト者も肉の業への誘惑の中にいます。肉の業から自由になれない現実があります。
肉とは生まれながらの人間の性質で罪とは切り離せない者です。
罪に勝利するために聖霊の助けが必要であり、罪と闘う決心が必要です。そして敵は私たちの内にいるのです。
今回考えるのは、人との関わりにおける罪からの解放です。人との関わりにおける罪も、さまざまな罪があります。色々な罪があると思います。そこで今回も私が体験したことを証しとして書くことにします。
罪からの解放という時、それは具体的な罪からの解放を意味すると私は考えます。そして解放は具体的な体験です。
人間は体を持つものとして創造されました。体があることはよい面と悪い面があります。
キリストに結ばれ新しい人になっても、肉の性質が私たちにはあります。この肉の性質のために私たちは罪を犯します。しかしこの肉の働きに、私たちは勝利します。
私と私の心を区別することにより、混乱を避け、聖なる者としての歩みができます。
古い人はキリストと共に死んだのに、まだ生きているように思えるのは、私たちのうちにある肉の性質のためです。
私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれました。キリストに結ばれたので、キリストに起きたことは私たちにも起きたことになります。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
行動において、思いにおいて囚われている状態があるなら、それが好ましくなく解決したいと思いながら自分の力で解決できないのなら、それは罪の奴隷状態にあると言えます。
聖書で罪は擬人化されて描かれています。つまり人間に罪を犯させる力として描かれています。このような悪しき力が存在しているのです。
人はみな罪の下にあります。罪の支配下にあるというのです。聖書の人間観です。
パウロは信仰者は「罪の中に生きることはできない」と語ります。挑戦的な言葉です。
キリストに結ばれた私たちは死にました。どういうことでしょうか。このことを理解することは救いの大いなる恵みへと私たちを導きます。
私が説教で時々語るたとえがあります。蛙(かえる)のたとえです。もし皆さんが天国に行った時、そこにいるのはみんな蛙だったらどうするかという話しです。
私たちの心は、神のみ心に従いたいという心と自分の好きに生きたいという心が戦う戦場です。聖霊は私たちを神のみ心に従うように導き、肉は自分の思い通りに生きるように働きかけます。