罪
自分が罪深い者であることは忘れず、同時に神が私を神の子としてくださったことを喜び、私は神の子として歩みます。
人はなぜ罪を犯すのか。答えを語るアダムとエバの物語。
聖書によると人間は神に似せて造られ、良い存在でした。同時に罪深い存在です。矛盾しています。
神に似せて造られた人間は、同時に罪深い存在です。この矛盾をどう考えたらよいのでしょうか。
悪い思いが心の中に湧いてくることは罪を犯すことにはなりません。 悪い思いに従って行動するとき、罪を犯すことになります。
パウロはキリストに結ばれて生きる信仰者となり、罪を克服して生きる者とされました。
イエス様の「し死ぬばかりに悲しい」悲しみは、人間の罪を悲しむ神の悲しみ。神の悲しみはやがて神の喜びへ。
主イエスが弟子たちにパンとぶどう酒を与えたのは何のためだったのか。三番目の意義について紹介
主イエスは弟子たちと最後の食事をしました。その中で弟子たちに裂いたパンを与え、杯を与えた主イエス。何のために?
神から御子を啓示され、イエス・キリストが救い主と知ったパウロの心境の変化を追います。
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。罪を犯すクリスチャンは、神の子といってよい?
旧約聖書には、神の掟として人が罪を犯した場合、いけにえを献げて神に赦しを求めることが命じられています。これは何を意味しているのでしょうか。
人は自分の犯した罪に対して自分で償いをすべきだし、身代わりなんておかしいと語る人もいます。でも聖書はなぜ、イエス・キリストが身代わりになったと語るのでしょうか。
人は他者との関わりの中で生きています。キリスト教は他者との関わりを大切にするように教えます。人はだれでも人格を持つものとして尊重されるべきです。
アダムとエバに現れたプライドという罪。プライドこそ、根本的な罪。
創世記によれば、神は人間を造り、善悪の知識の木の実は食べてはいけない、食べると必ず死んでしまうと警告されました。なぜ?
クリスチャンは洗礼を受け生まれ変わり、神さまの教えに従いたいと考えます。時に、反発する思いも抱きます
信仰者には、神さまの教えに従うのは無理だとか、従いたくないとか、頑なな思いがあります。どう対処するか。
罪に打ちのめされることをめぐって。罪とプライドには深い結びつきがあります。
アフガニスタンにおける自爆テロとアメリカの報復。犠牲者が出たことをどう受けとめるのか。
当たり前は決して当たり前ではないと気づくことは幸いではないかと思います。私たちの当たり前は?
神の前に人間が犯す罪は、神を神としないこと、神を敬わないこと。そして敬わない心から出てくる神の教えに逆らう行動。それが罪。
聖書は信仰者の成長には段階があることを伝えています。子、若者、父で段階を表現しています。
罪との戦いに勝利の道が用意されています。必要なのは決断です。
信仰者の心の中の戦い。勝利する道は信仰者の決断です。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
キリスト者として生きようとすると葛藤が起きます。神の教えに生きようとする思いとそれに反発する思いが心の中でぶつかるのです。
罪へと私たちを誘う勢力を認めると、罪との戦いが生じますが、勝利が約束されています。
罪との戦いを考える時、私たちに罪を犯すように働きかける力のあることを認めることが大切です。