罪
罪との戦いを考える時、私たちに罪を犯すように働きかける力のあることを認めることが大切です。
キリスト者も肉の業への誘惑の中にいます。肉の業から自由になれない現実があります。
肉とは生まれながらの人間の性質で罪とは切り離せない者です。
罪に勝利するために聖霊の助けが必要であり、罪と闘う決心が必要です。そして敵は私たちの内にいるのです。
今回考えるのは、人との関わりにおける罪からの解放です。人との関わりにおける罪も、さまざまな罪があります。色々な罪があると思います。そこで今回も私が体験したことを証しとして書くことにします。
罪からの解放という時、それは具体的な罪からの解放を意味すると私は考えます。そして解放は具体的な体験です。
人間は体を持つものとして創造されました。体があることはよい面と悪い面があります。
キリストに結ばれ新しい人になっても、肉の性質が私たちにはあります。この肉の性質のために私たちは罪を犯します。しかしこの肉の働きに、私たちは勝利します。
私と私の心を区別することにより、混乱を避け、聖なる者としての歩みができます。
古い人はキリストと共に死んだのに、まだ生きているように思えるのは、私たちのうちにある肉の性質のためです。
私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれました。キリストに結ばれたので、キリストに起きたことは私たちにも起きたことになります。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
行動において、思いにおいて囚われている状態があるなら、それが好ましくなく解決したいと思いながら自分の力で解決できないのなら、それは罪の奴隷状態にあると言えます。
聖書で罪は擬人化されて描かれています。つまり人間に罪を犯させる力として描かれています。このような悪しき力が存在しているのです。
人はみな罪の下にあります。罪の支配下にあるというのです。聖書の人間観です。
パウロは信仰者は「罪の中に生きることはできない」と語ります。挑戦的な言葉です。
キリストに結ばれた私たちは死にました。どういうことでしょうか。このことを理解することは救いの大いなる恵みへと私たちを導きます。
私が説教で時々語るたとえがあります。蛙(かえる)のたとえです。もし皆さんが天国に行った時、そこにいるのはみんな蛙だったらどうするかという話しです。
私たちの心は、神のみ心に従いたいという心と自分の好きに生きたいという心が戦う戦場です。聖霊は私たちを神のみ心に従うように導き、肉は自分の思い通りに生きるように働きかけます。
聖書が語「肉」は私たちの性質です。この「肉」が私たちに罪を犯させます。罪との戦いは、この肉との戦いです。
肉の人とはどんな人か。キリストを信じていない人は皆、肉の人。罪の支配下におかれている。
悔い改めの実を結ぶことは大切です。自分が犯した罪を犯さないようになること、つまり罪に勝利することは立派な悔い改めの実です。
具体的な罪に勝利し、その罪を犯さなくなるための方法、いくつかのヒントです。
罪から解放されたら知っておきたいこと。 私たちは聖なる者となることを目指していること 私たちは神との交わりに生きること
罪から解放されるために、悔い改めが必要です。私たちは罪深い存在なので、清い心を神様に造っていただくことが必要となります。
罪を犯したことに気づいた時に取る態度は三種類あります。気にしない、後悔する、悔い改める。
第二の罪認識、それは自分自身が罪深い存在であるとの認識です。ダビデは祈りました。「母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」。
罪認識には②種類あるように思います。一つは、具体的に神の御心に反すること銅を行った問う罪認識です。
人が罪の支配下に置かれたのはなぜでしょうか。ある意味謎です。創世記の3章の物語は答えを与えてくれます。
この世界には、私たちに罪を犯させる力が働いています。人はみな、罪の支配の中におかれていると聖書は告げます。