2022-01-01から1年間の記事一覧
ルカ福音書15章の放蕩息子の歩み。私たちの信仰成長の一つのパターンかもしれません。
説教奉仕をしたG教会での出来事。聖なるものを見たという体験。
昨日久しぶりに礼拝説教奉仕をしました。説教の紹介です。
私はキリストに結ばれた時、その人は真のキリスト者になるのだと考えています。
人間の生活は習慣から出てきているように思います。よい習慣を作ることはよい人生を生きることにつながります。
「神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります」。うれしい言葉ではないでしょうか。
私たちは神の戒めをどのように受けとめたらよいのでしょうか。神の戒めは私たちを祝福するものとしてあると私は信じます。
私はクリスチャンが「神さまの戒めを守らなければならない」と語るのを何度も聞きました。なぜ、守らなければならないのかと考えるのでしょうか。
今日の出来事。
キリストに結ばれたキリスト者の特徴として、神を知り、神を喜び、神を誇ることがあります。このことを主イエスの語られたたとえが明らかにしています。
洗礼を受け、礼拝生活、信仰生活を続け、聖書を読み学び、み言葉に従う歩みの中で信仰者は成長していきます。
ローマ 8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
キリストによって救われたキリスト者はどんな人かを描写します。
キリスト者は地上の生涯を終えると神の国、神さまのもとに行きます。住む場所が変わります。それと同じように私たちがキリストを信じ、キリストに結ばれると住む場所が変わります。
キリスト者は、律法の下にはいない、律法に対しては死んだ者、律法から解放されている、とあります。どういうことでしょうか。
聖書が告げる救いとは滅びからの救いだと書かれています。ロマ書を読んで滅びを語ることをためらってはいけないと思うようになりました。
放蕩息子の物語をあらたな視点から思いめぐらしてみました。
日曜午後、双子の孫と一緒の時間を過ごしました。
パウロは罪の赦しの先にあるものを見ています。イエスの語られた放蕩息子の物語は赦しの先にあるものを見せてくれます。
信仰によって義とされることを語る時、パウロは罪の赦しを語りません。なぜなのか、と思います。
今年の2月24日にロシアのウクライナ軍事侵攻が始まりました。そして5ヶ月が過ぎました。事態は見通しがつきません。ウクライナを覚えて祈り続けます。
イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、神に対して従順に歩まれました。この方が私たちの罪の償いの供え物として十字架で亡くなられました。
「信仰によって義とされる」とはどういうことなのか、考えたいと思います。
福音は信じる者に自由、解放をもたらすものだと思います。新約聖書に出てくる重要な解放は三つあります。罪からの解放、律法からの解放、死の恐怖からの解放。
祈祷会で賛美した讃美歌に共通点が。
現実の世界の中で信仰をもって生きることは簡単ではありません。色々な場面で罪との戦いがあります。教会に集う一人ひとりの信仰者が、それぞれの場で戦っています。
時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。
キリスト者は時に深刻な罪との戦いに直面します。神さまの御心に従いたくないという思いが、私たちの心にあるのです。
テレビで統一教会のことが話題となっています。私の人生に無関係なな団体ではないことを思い出します。
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、