「その時は来る」という言葉が、若い時から私の心の中にあります。どんなに遠いように見えても、その時は必ず来ることを体験しました。
マタイ福音書で離縁についての主イエスの教えを読み思いめぐらしました。長年の結婚生活に対する神さまの支えに感謝しました。
今週10月1日、無牧の教会の礼拝説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。 聖書 詩編8編 ローマ 3:21~26 説教 神の救いが目指すもの
讃美歌536番 むくいをのぞまで。この讃美歌に叱られるような思いをしました。
終わりを見て生きる、それが私の人生観です。自分の命の終わりと世界の終わりの終末。この二つを見て今を生きます。
御子の似姿になること、キリストに似た者となることはキリスト者の目標です。
失った神の栄光の回復
昨日は教会の祈祷会。ヨハネ福音書15章1~17節を共に読み、しばらく思いめぐらし、各自が心にとまった聖句を紹介し合いました。
最近、気になっている聖句。 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」。
赦しを考えるとき、二つの面があると考えます。神と向き合う自分として、相手と向き合う自分として。
人を赦すことについて考えさせられる文章に出会いました。
聖書が告げる死を越える希望は、信じて大丈夫なのか、と思う自分がいます。
「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げなさい」とのロマ書の言葉の黙想です。
そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。神が自分を顧みてくださることの不思議が告白されています。
十戒の「殺してはならない」を黙想しました。そして単純ですが祈ることに導かれました。
祈祷会で聖書を共に読み感想を分かち合うとき、失敗しました。説教者目線で聖書を読んだために感想が湧いてきません。
私が今回信仰生活の出発点と考えたのは、罪に立ち向かう信仰の歩みを始める時を出発点としたいと思ったからです。4つのことに心を留めたいと思います。
「老いるとは新しい経験をすることです」との老教会員の言葉を折に触れて思い出します。「外なる人」の衰えを色々な形で経験します。
説教の紹介です ~~~~~~~~~~ 聖書 創世記6章5~8節 ローマ 1:18~32 説教 天から啓示される神の怒り ~~~~~~~~~~
奈良高畑教会ではファミリーコンサートが行われました。ある家族が歌った曲が特に心に残りました。「にじ」という曲です。
「私」と私の心の区別の実例を紹介します。私の心には色々な思いが湧いてきます。それらの思いにどう対処するのか、それが「私」です。
人格としての「私」と私の心を区別するとき、罪に打ち勝つ道が開かれると考えます。
讃美歌536番「むくいをのぞまで」を賛美し、励ましを受けています。
罪から解放された「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。罪を犯したくないと強く考え、意志する「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。それは私たちが体を持っているです。
実質的な信仰生活の出発点は、「自分は罪を犯したくない」との思いをもって生き始めるときだと私は考えます。
洗礼を受け、キリストに結ばれるとはキリストと共に死に、新しい命に生きることです。
牧師の働きを終え、老いの日々を送る中、信仰について思いめぐらす日々を過ごしています。気づかされたことがあります。
讃美歌405番 神ともにまして を歌って思い出した事柄。
今日思いめぐらした聖書箇所は、ロマ書の6章11節です。ここには興味深い表現があります。「~と考えなさい」という表現です。パウロは「信じなさい」とは言わないのです。
youtube で讃美歌を聞きながら一緒に賛美します。最近特に気に入って歌っているのが217番です。