クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

2020-01-01から1年間の記事一覧

律法の役割

律法の二つの役割。人を祝福する働き、人に罪を知らせる働きがあります。

新しい経験

年をとるとは、新しい経験を積み重ねること。老信徒の語った言葉が思いだされます。「手術が必要です」。ドキッ。

私は律法の下にはいない 私の場合

「しなければいけない」世界、律法の下にある信仰者の歩みから自由になった話しです。

私は律法の下にはいない

キリスト者は神の教えを守らなければならないとは考えず、神を愛し、神の心を大切にするので、これに喜んで従おうとします。

わたしたちに必要な糧を今日与えてください

わたしたちに必要な糧を今日与えてください マタイ福音書の主の祈りを思いめぐらしています。今日は11節の言葉を思いめぐらしました。キリスト者ならだれもが知っている言葉です。 必要な糧とは食物だけではなく、生きていくのに必要なものすべてと理解しま…

物憂い気持ちで目覚めた朝

中国から日本へ仏教を伝えるために渡来した鑑真の布教に対する思い。

私は律法から解放された(3)

律法あるいは神の掟は、祝福の手段として、信仰者に与えられました。掟を守ることの中に祝福があります。

私は律法から解放された(2)

(クリスチャンの成長(66)キリストに結ばれて- 24) ローマ 7:4~6ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。・・・・しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律…

私は律法から解放された(1)

キリストに結ばれたキリスト者は律法から解放されています。神の戒めを守らなければならないと考える必要はありません。

私は罪から解放された(4)

罪の捕らわれから解放された先にあるのはキリスト者の自由です。

私は罪から解放された(3)

今回考えるのは、人との関わりにおける罪からの解放です。人との関わりにおける罪も、さまざまな罪があります。色々な罪があると思います。そこで今回も私が体験したことを証しとして書くことにします。

私は罪からの解放された(2)

罪からの解放という時、それは具体的な罪からの解放を意味すると私は考えます。そして解放は具体的な体験です。

御国が来ますように

主の祈りを毎日祈っているとすると、「御国が来ますように」と毎日祈っていることになります。

私は罪からの解放された(1)

信仰者はキリストにむすばれ、キリストと共に死にました。死んだ人に対して、罪は何の影響力も発揮することはできません。キリスト者は罪から解放されました。

肉の性質・肉の働き

人間は体を持つものとして創造されました。体があることはよい面と悪い面があります。

罪に支配された体の滅び

キリストに結ばれ新しい人になっても、肉の性質が私たちにはあります。この肉の性質のために私たちは罪を犯します。しかしこの肉の働きに、私たちは勝利します。

奈良を歩いて

奈良の名所を歩いて思うこと。キリストを信じることができた幸いを思います。

私と私の心の区別

私と私の心を区別することにより、混乱を避け、聖なる者としての歩みができます。

古い人の幽霊登場?

古い人はキリストと共に死んだのに、まだ生きているように思えるのは、私たちのうちにある肉の性質のためです。

古い人、新しい人(続き)

信じたことは、やがて経験できるようになります。キリストに結ばれたキリスト者は、その古い人が死に、新しい人が生きるようになったことを経験するようになります。

古い人、新しい人

罪に勝利して生きることを考えるとき、罪から解放された者として生きることを考えるとき、考えるべき大切なことが二つあります。第一は、古い人と新しい人の理解。第二は、肉の性質です。

心の中はいつも戦場

信仰者の心の中は罪との戦いの戦場。そこに福音が届けられます。

真の神であり、真の人であるイエス

イエスは真の神そして真の人。このイエスは私にどんな励ましをもたらすのでしょうか。

神の御支配の中にあると考える

私が聖書の「救いのモデル」と考える出エジプトの出来事は、示唆に満ちています。

キリストに結び合わされて

私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれました。キリストに結ばれたので、キリストに起きたことは私たちにも起きたことになります。

私は罪に対して死んだ

キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

喜んで死ぬ

死を越える楽しみ、それが喜んで死ぬことを可能にするのではないか。

罪の奴隷である人間

行動において、思いにおいて囚われている状態があるなら、それが好ましくなく解決したいと思いながら自分の力で解決できないのなら、それは罪の奴隷状態にあると言えます。

信仰者の敵、悪しき力、勢力が存在している!

聖書で罪は擬人化されて描かれています。つまり人間に罪を犯させる力として描かれています。このような悪しき力が存在しているのです。

クリスチャンはどこで生きるか

罪の領域と御子の支配する領域のどちらで生きるのか。人はどちらかの領域で生きています。