2020-01-01から1年間の記事一覧
人はみな罪の下にあります。罪の支配下にあるというのです。聖書の人間観です。
パウロは信仰者は「罪の中に生きることはできない」と語ります。挑戦的な言葉です。
キリストに結ばれた私たちは死にました。どういうことでしょうか。このことを理解することは救いの大いなる恵みへと私たちを導きます。
近況です。夏が過ぎ、静かな夜、思いに浸り、また聖書を学ぶ日を過ごしています。
キリストに結ばれるってどんなことでしょうか。キリストがいつもわたしと共にいてくださるということ?それ以上のことです
終末の事柄をいかに信じるのか。賛美することは、自分の声を通して、歌詞を聞くこととなり、信仰が芽生えます。
イエス・キリストを信じる人はキリストに結ばれています。もしキリストに結ばれていると考えないと私たちは根無し草の信仰者になってしまいます。
成熟した信仰者ってどんな人なのでしょう。それは神の知恵を語る人です。神の知恵とは、世界創造時に神が持っておられた計画のことです。
パウロは死ぬことは益ですと語りました。死ねば、神の国に行き、キリストと出会い、いつまでもキリストと共にいることになるからです。
キリストを信じる人はクリスチャンと呼ばれます。クリスチャンであるとは、キリストに結ばれた存在であることを意味します。
昨日の祈祷会で讃美歌211番を懐かしさを覚えつつ賛美しました。教区総会で行われる按手礼で歌うのが楽しみでした。
私が説教で時々語るたとえがあります。蛙(かえる)のたとえです。もし皆さんが天国に行った時、そこにいるのはみんな蛙だったらどうするかという話しです。
私たちの心は、神のみ心に従いたいという心と自分の好きに生きたいという心が戦う戦場です。聖霊は私たちを神のみ心に従うように導き、肉は自分の思い通りに生きるように働きかけます。
葬儀の知らせを聞き、老いを生きることの恵みと厳しさを思わされました。教会が慰めの共同体であってほしいと切に願います。
十字架の言葉は力、福音は信じる者に救いをもたらす神の力と聖書にあります。キリストを信じる者として、この力をどのように受けているのか、言葉に書き表します。
聖書が語「肉」は私たちの性質です。この「肉」が私たちに罪を犯させます。罪との戦いは、この肉との戦いです。
肉の人とはどんな人か。キリストを信じていない人は皆、肉の人。罪の支配下におかれている。
悔い改めの実を結ぶことは大切です。自分が犯した罪を犯さないようになること、つまり罪に勝利することは立派な悔い改めの実です。
具体的な罪に勝利し、その罪を犯さなくなるための方法、いくつかのヒントです。
ふと何のために生きているのかと思います。私の「心」の言葉。そして私の「頭」は、信仰によって人生を最後まで生きると言います。
罪から解放されたら知っておきたいこと。 私たちは聖なる者となることを目指していること 私たちは神との交わりに生きること
御言葉によって生きる方法としてのディボーションを知ったことは、私の信仰者人生の財産です。
聖書は神の存在を証明しようとはしていません。かみがいかなるかたかをかたり、このような方を神と信じるか、と私たちに問いかけているように思います。
罪から解放されるために、悔い改めが必要です。私たちは罪深い存在なので、清い心を神様に造っていただくことが必要となります。
罪を犯したことに気づいた時に取る態度は三種類あります。気にしない、後悔する、悔い改める。
『竜の道』『半沢直樹』。人気役者が出るドラマです。いずれも復讐をテーマとしています。悪人が懲らしめられ痛悔です。でも・・・
第二の罪認識、それは自分自身が罪深い存在であるとの認識です。ダビデは祈りました。「母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」。
罪認識には②種類あるように思います。一つは、具体的に神の御心に反すること銅を行った問う罪認識です。
人が罪の支配下に置かれたのはなぜでしょうか。ある意味謎です。創世記の3章の物語は答えを与えてくれます。
この世界には、私たちに罪を犯させる力が働いています。人はみな、罪の支配の中におかれていると聖書は告げます。