イエス・キリスト
イエス・キリストは神であるのに人となりました。なぜ人となられたのでしょうか。その答えは、人間を愛しておられたからです。
キリストは神であるのに人となりました。これはどういうことでしょうか。たとえで考えています。
イエス・キリストは神であるのに人となり、人を救うために十字架で死なれました。神が人となり、人のために死ぬ、こういうことでしょうか
アダムとエバに現れたプライドという罪。プライドこそ、根本的な罪。
最近インターネットのユーチューブですてきな賛美歌に出会いました。 それは "It’s not an easy road" (簡単な道ではない)です。
「いつも喜んでいなさい」とあります。これは無理です。信仰から来る喜びが心の底にあります。
キリストによって豊かにされた私の6回目は<永遠を思う心>です。永遠を思う心が湧き上がってきたのは、年をとってからです。
イエス・キリストによって恵みとして与えられた者に、神さまに感謝する心があります。
イエス・キリストの恵みは私の心に平安を増し加えてくださいました。心の底に平安があります。
キリストによって豊かにされた私の4回目は<聖書によって考える心>です。私は自分が物事を考えるときの土台を聖書においています。
人を批判し裁く思いは誰にもあります。そのような思いが湧いたら、執り成すことが大切です。
信仰者になって愛を知り、神さまの助けにより人を愛する人間に変えられて生きてきました。
自分の不明を恥じて、残りの人生の課題を知る。
キリストと出会ってパウロの心はどのように変わったのか。一つ確かなことは、彼は自分がみじめな人間であると悟ったこと。
キリストの十字架を私が誇る理由。それは私がキリストとひとつにされて歩むことができるようになったからです。
今まで内に秘めていて言葉にしていなかった思いがありました。今それを言葉に出して言います。
パウロはキリストと出会い、それまで誇りにしていたものが塵になったと語ります。何が起きたのでしょうか
イエス・キリストを知る素晴らしさはパウロの生き方を変えました。それでは私たちは?
パウロは「主に喜ばれる者になりたい」と書きました。私もそうなりたいです。
福音は力と聖書にあります。この力は私にどのように働きかけたのか、振り返りました。
キリストは人類の罪を背負われたと説教者としての私は語ってきた。そんな私が反省したことは
いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と語られたイエス様の言葉。どう受けとめたらいいのか。
イエス・キリストの十字架を神の計画という視点から考えます。神さまは世界を創造する時に十字架を計画しておられました。
十字架の上でひとびとからののしられ、あざけられ、侮辱されたいえす。みじめなすがたをさらすのはなぜ?
キリスト者が新しい人として生きていく理由。第一のりゆは神の国を目指して生きているから。
イエス様は御子として父なる神さまに親しみを感じていると思います。自分もそのような親しみを感じたいとの願いがあります。
イエス様は「あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る」と語り死刑にあたると裁かれました。。
ゲッセマネの園で祈り。祈りの中で、十字架への道を決断するイエス。そして「立て、行こう」と前進するイエス様
ゲッセマネの園で主イエスは祈られました。そのとき、「死ぬばかりに悲しい」とイエス様は言われました。何を悲しまれたのでしょうか。