イエス・キリスト
受難節を過ごしている今、イエス様はどんな思いで苦難の時を過ごしておられるのか、思いめぐらしました。
ゲッセマネの園でイエス様が祈る場面を思いめぐらしました。一番印象に残ることは、イエス様が恐れもだえたこと、そして「死ぬばかりに悲しい」と言われたことです。
主イエスが弟子たちにパンとぶどう酒を与えたのは何のためだったのか。三番目の意義について紹介
主イエスは弟子たちと最後の食事をしました。その中で弟子たちに裂いたパンを与え、杯を与えた主イエス。何のために?
私たちは洗礼を受け、クリスチャンになりますが、パウロは洗礼を通して、私たちはキリストに結ばれると書きます。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストを知る素晴らしさとは?
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。パウロはどんな気持ちでこの告白をしたのでしょうか。
栄光を見るってどういうことでしょうか。栄光を見ると言っても、肉眼で見るわけではなく、見るなら心の目です。
ヨハネ福音書には神から遣わされたヨハネは光について証しするために来た、と書かれています。私もキリストの証し人として語ってみたいと思います。
パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と書いています。キリストはいつ、「固執しようとは思わ」なかったのでしょうか。
神は人となられたと言われても戸惑います。聖書の言葉をもとに黙想してみました。
だれが全人類の罪の償いをすることができるでしょうか。現実の人間は、自分自身罪を犯します。全人類の罪の償いをできる人は、全く罪のない人だけです。
今度の日曜日は教会でクリスマス礼拝が行われます。神さまは救い主をこの世に送り、私たちのために救いの御業を行われました。そもそも神さまは、なぜ救い主をこの世に送られたのでしょうか。
信仰生活でやっかいなのが「実感」です。実感がないとなかなか信じられないと問題があります。信じたいけど信じられない、信じられないけど信じたい、と悩みます。
イエス・キリストは神であるのに人となりました。なぜ人となられたのでしょうか。その答えは、人間を愛しておられたからです。
キリストは神であるのに人となりました。これはどういうことでしょうか。たとえで考えています。
イエス・キリストは神であるのに人となり、人を救うために十字架で死なれました。神が人となり、人のために死ぬ、こういうことでしょうか
アダムとエバに現れたプライドという罪。プライドこそ、根本的な罪。
最近インターネットのユーチューブですてきな賛美歌に出会いました。 それは "It’s not an easy road" (簡単な道ではない)です。
「いつも喜んでいなさい」とあります。これは無理です。信仰から来る喜びが心の底にあります。
キリストによって豊かにされた私の6回目は<永遠を思う心>です。永遠を思う心が湧き上がってきたのは、年をとってからです。
イエス・キリストによって恵みとして与えられた者に、神さまに感謝する心があります。
イエス・キリストの恵みは私の心に平安を増し加えてくださいました。心の底に平安があります。
キリストによって豊かにされた私の4回目は<聖書によって考える心>です。私は自分が物事を考えるときの土台を聖書においています。
人を批判し裁く思いは誰にもあります。そのような思いが湧いたら、執り成すことが大切です。
信仰者になって愛を知り、神さまの助けにより人を愛する人間に変えられて生きてきました。
自分の不明を恥じて、残りの人生の課題を知る。
キリストと出会ってパウロの心はどのように変わったのか。一つ確かなことは、彼は自分がみじめな人間であると悟ったこと。
キリストの十字架を私が誇る理由。それは私がキリストとひとつにされて歩むことができるようになったからです。
今まで内に秘めていて言葉にしていなかった思いがありました。今それを言葉に出して言います。